野本先生がシーマンシップについて語ったこと

春一番の季節がやってきた。「春一番」といえば野本謙作先生。在りし日の野本先生を偲びつつ、あらためて先生の著作や雑誌記事、講演録から、先生が常々おっしゃっていたことを抜き書きしてみた(出典は末尾に)。先生の言葉はどれも含蓄が深いが、とりわけ「帆走しながら酒宴を開いたり、少し走りづらくなるとすぐに機関を使ったりするのは宝の山に入りながら素手で帰って来るようなものだ」というくだりは耳が痛い。

  • 日本語の”シーマンシップ”には船乗り精神とでもいうような倫理的要素を含むことが多い。しかし本来の”シーマンシップ”はロープの扱い、錨の打ち方からメインテナンス作業まで、およそ船乗りに必要とされる全ての技能ないしは職人芸のことで、心構えとか船乗りらしさとかの意味はない。(SYn)
  • 私が追求したのはこの「帆船を走らせ、メインテナンスをする職人芸」を磨くことだった(SYn)

     
  • シーマンシップの内容の一つ一つは…全然具体的だ。「なあんだ」と言ってはいけない。シーマンシップとはそのようなものだ。「なあんだ」と言うのはまだ海と船がどんなものか分かってないからだ。(三10号)
  • なるほど聞けば理由はあるが、理由があるからそうすると言うのは実はシーマンシップの本領ではない。シーマンシップではそうすることになっているが、何故だろうと考えてみたらその理由に気づくと言うのが真相に近い。(三10号)
  • 船を動かすのは口先ではなくて手足だ。理屈は後でゆっくり反省すればよい。まず的確な行動が必要だ。そのためにシーマンシップの数々の約束ごと、ルールがある。(三10号)
  • (シーマンシップは)海に生きた数えきれない人間たちが何千年もかかって作り上げて来た技術と生活の知恵なのだ。シーマンシップに敬意を払うと言うことは従って海という大自然に然るべき畏怖の念を持つことにもつながる(三10号)

     
  • ブルーウォーター派とは本来、緑の沿岸水にあきたらず陸を離れて何日も何十日も濃紺の外洋に漂う人たちのことだが、少くとも最近のわが国ではレースをしない気楽なクルーザー乗りの意味に使われている。 気楽にしていけない理由はないが、帆走しながら酒宴を開いたり、少し走りづらくなるとすぐに機関を使ったりするのは宝の山に入りながら素手で帰って来るようなものだと思う。(三12号)
  • ヨットに乗るからには天然自然の風だけに頼って、船を動かして海を渡る。そうするうちに、人間がこんなにおごり高ぶってくる前の、自然の偉大さとか、美しさとか、恐ろしさとか、そういうものが実感できると、私は感じてきているわけです(セ研)
  • 時間がなければ、無い時間の中でできるだけ充実した帆走をすればいいだろう。せっかく少ない時間をヨットに乗るんだったら、その中でエンジンを使ったんでは、せっかくのいい時間を無駄に使ってしまってるじゃないか(セ研)
  • 何か緊急の事態が起こったときに、帆を忘れてエンジンを頼ろうという態度は、危険を倍加することはあっても、安全のためには役に立たない(セ研)
  • ヨッティングは誇り高い帆船の伝統を受け継ぐスポーツだ。だのに何かあるとすぐ帆を忘れて機械に頼ろうとするのは、いかにも腰が定まらない話だ。海の上で何が危ないといって腰がふらついているほど危ないことはない。その意味で船乗りは頑固でなければならぬ(Syn)

     
  • ブイへ船を着ける時は風下からスピードを殺しながら近寄るべしとか、長い時間錨泊するときには風下側にもうひとつ錨を入れて、そのロープは船尾では無く船首の錨鎖の途中に止めなさいとか、船を陸につなぐ舫いロープはロープの一番端を陸側に結び、余った分は船の中へコイルアップしておくものだとか、たくさんのシーマンシップのしきたりがある。これらもまた一生を海に捧げた無数の水夫たちの結論なのだ。(三13号)
  • 私は、一から十まで決まっている通りにやれ、と云っているのではない。そうではなくて、まず基本だけはしっかり身に着けろ。その上に自分のものを積み上げる事が出来れば立派なものだ。(三13号)
  • (シーマンシップは)数え切れない人間たちが、その一生をかけて作り上げて来たものだ。それをまず尊重し、それに学ぼうではないか。美術でも音楽でも基本をおろそかにした我流が決して大きい創造に至らない事は、この世界の歴史が証明している。船を動かす手練もまた同じである。(三13号)

【出典】
 SYn: スピン・ナ・ヤーン(第2版)終わりの章
 三n号: 三角波(阪大ヨット部機関紙)第n号
 セ研: 第14回セーリング研究会特別講演「私の帆走哲学と春一番II」
 なお、文中の太字は引用者(私)によるものです

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